優しい陽光が瞼を通して、蘭の覚醒を促す。
小鳥のさえずりがやわらかに耳に届くと、ああ、朝だなあとぼんやりと感じて意識が浮上してきた。
なんだろう、すごく幸せだ。
すごく暖かくて、癒されて、幸せな朝だ。
まどろみながらそんなことを考えながら蘭は目を覚ました。
まずは見慣れた天井が目に入る。
淡い桃色を基調としたお気に入りのカーテンは朝日をすこし遮って部屋に光を届けている。
質素ながらも整った部屋は確かに蘭のくらすアパートメントの彼女の部屋だった。
父は憲兵をしていてずっと地方出張を繰り返しており、ほどんどこの街には戻らない。
母は弁務官として有能で、城下町に自分の部屋と事務所を構えてバリバリに働いている。
蘭は幼いころから親戚すじの遠縁である神父に預けられることが多く、そのままシスターを志したことも手伝って、必要な資格を手に入れると思い出深いこの町でお世話になった神父を手伝って教会に努めるようになり、この町に一人で暮らすようになったのだ。
ゆっくりと眼だけ動かして部屋を見回す。
間違いなく住み慣れた自分の部屋だ。
それなのにいつもと違う満たされた高揚感はまだ続いていて、今日という日が訪れていることをすごく幸せに感じる。
が、それがいったい何だったのか……まだ夢見心地でいる蘭ははっきりと理解していなかった。
ゆっくりと部屋を見回して、それから、ああ、と仕事へ行かねばならないことを思い出し、もう一度カーテンに目を向けた。
陽光が明るい……。
そう感じたのとほぼ同時に街に朝の知らせを告げる鐘の音が鳴り響いた。
ゆっくりと聞こえてくるそれをぼんやりと七回なるのを聴いてから、蘭は一気に覚醒した。
「やだ、寝坊しちゃったっ!! ……っ!!」
ベッドから飛び起きようとして身を起こすと、全身に、特に下腹部に今まで感じたことのない痛みを感じた。
体の内側からずきりと響いて蘭は動きを止めた。
「……え?」
痛みの原因に思い当たらず、痛む自分の体を見下ろすと、昨日の仕事着のままベッドに横たわっていた。
昨日って……どうやって帰ってきたっけ? と、おぼろげな記憶を反芻する。
が、すぐに、痛みの原因と、そして幸せと感じた感覚の理由に思い至った。
と同時に、一気に体中の血液が沸騰するのではないかというほどに真っ赤に赤面する。
そう、昨日はずっと前に死んでしまったと思い込んでいた幼馴染みと、――新一と再会したのだ。
逢魔が時に現れるという不気味な噂がたてられていた、彼の家。
十年前に全焼したはずのその家は、確かに昨日、蘭が訪れると、以前と同じ町はずれの森の中にたたずんでいた。
町の噂では悪魔が出るだとか、幽霊が出るだとか…日が沈むと家ごと消えて飲み込まれるとか……。
行方不明者など出ていないのに、そんな噂が独り歩きしていた。
教会に相談に来る人数は日に日に増えていき、蘭の面倒を見てくれている神父と相談し、蘭は自分から行って確かめてみると提案した。
だが、確かに、そこにはないはずの古びた洋館は、噂通り蘭の目の前に現れた。だが、噂とは違って十年前と同じように優しく蘭を迎え入れてくれたのだった。
中に入ると、人気はなくて、すこし涼しい雰囲気がやさしさのほかにほんの少し恐怖をあおった。
だが、大好きだった彼の――新一の家だ。
十年前に燃えてしまうまで何度も訪れ、何度も遊び、何度も泊まったりもした。
十年前に分かれたきりのもういない少年の顔を思い浮かべて足を踏み入れると、コツコツと小さな足音が上の階から響いてきて、そこに現れたのは、先ほど思い描いた新一と寸分たがわぬ姿の少年だった。
しいて違ったのは、かけられた大きめの眼鏡だけ。
だが、蘭の問いかけに、彼はどこか物悲しそうにうなずいて、死んでしまったはずの新一本人であると認めてくれた。
新一と別れる原因になった真相を知ると、あとはただ必死だった。
ずっと、彼が大好きだった。
よく預けられに来るこの街で、友達もおらず、両親もいない。
そんな寂しさに手を差し出してくれたのが新一だった。
幼心にそれが恋だったか、と聞かれると答えはわからない。
だが、彼と一緒にいるのが楽しくて、幸せだった。
だから、この町に預けられに来ることがいつの間にか苦痛ではなくなり、楽しみに変わった。
それなのに、――新一は、ある日突然、彼の家とともに燃えてしまったのだ。
目の前が真っ暗になった気がした。
それからしばらくは、どうやって過ごしていたのかあまり定かではない。
夜遅くまで焼野原になった新一の家の焼け跡に一人でいることが多かったと聞かされたこともある。
だから、彼との再会は、色褪せてしまった蘭の視界に、もう一度、鮮やかな色を付けたのだった。
月の光の中に、紅く輝く彼の瞳が以前と違うことに気が付いてはいた。
だが……、そう、その光に魅入られていたのだろう。
見る人が見れば、不気味な血の色をしたそれは、蘭にとっては美しい魅惑の宝石のようだった。
そばにいたいと願った蘭の願いを、彼は戸惑いながらも受け入れてくれた。
代わりに告げられた条件に驚きはしたが、否定する要素など何一つなかった。
だって、大好きだったのだから―――。
初めて触れた口付けに心ごと溶かされてしまったように新一に縋りついていた。
何が起こっていたのかはよくわからなかったが、昔より幾分低くなった優しい声で名を呼ばれると、頭が真っ白になった。
何度も何度も、求めあうように口づけをかわした。
強く抱きしめられて、耳元でささやかれた愛の言葉に全身が泡立だった。
離れていた時間を埋めあうように、互いを求めあった。
彼に抱きしめられていることが心地よくて、それに酔いしれているうちに眠ってしまっていたのだろう。
そうして、気が付いたのが―――今だった。
……見慣れた、自分の部屋だった。
「……しん、い、ち?」
かすれた声で、呼びかけたのは、昨晩何度も呼んだ愛おしい名だった。
だが、その姿を見出すことができず、空虚な響きで蘭の自室に響く。
「……新一……?」
もう一度少し照れくさそうに微笑んだ彼の姿を思い起こしながら名前を舌に乗せるが、それへの返事はなかった。
「……ゆ、め……?」
死んでしまったはずの少年が、目の前で自分と同じ年頃に姿を変え、愛をささやいてくれるなど……。
ただの哀しい夢、今まではそう思えたかもしれない。
だが、蘭の体に刻まれた痛みが、それを夢であることから否定した。
蘭の体に夢の残り香だけ残して、あの火事の時のように彼の姿が消えてしまったのか……?
「新一!!」
思わず声を荒げても、むなしく自室に声がこだまするだけ。
ぞくり、と背筋に寒気が走った。
蘭は痛みを振り切って身を起こすと急いで身支度を整える。
体のだるさを引きずってまずは勤め先に詫びに行かねばならない。
遅刻の上に、急きょ休みがほしいなど。
頭の中で新一のいそうな場所を巡らせながら蘭は部屋を飛び出した。
ダイニングテーブルに、整った文字の書かれた書置きが置いてあったことには気づきもせずに。
ただ、彼の姿だけを追い求めて。
教会につくなり、神父に無事を喜ばれたが、遅刻の詫びや報告もそこそこに飛び出した蘭の背中に戸惑いの呼びかけがかかる。
だが、蘭の心情としてはそれすらもかまっていられなかった。
またいなくなってしまうかもしれない。
またあの色あせた日常を過ごしていかなければならないかもしれない。
夢だなんて思いたくない。
なにか不浄のものがみせた幻だとか、まやかしだなんてそんなはずはない。
だって、新一だったもの……!!
だんだんと上がってくる息をぐっと飲みこんで、蘭は町中を駆け回っていた。
石畳がきれいに並ぶ通りを駆け抜け、すれ違う人々の中から新一の姿を探す。
昔、新一と遊んだ噴水広場を通り抜け、入り組んだ住宅街を駆け抜ける。
昨日、町はずれの洋館あとへ向かったことを知っていた街の住人たちが蘭の無事に声をかけてきたが、挨拶もそこそこに蘭はもう一度町はずれへと急いでいた。
きっと、あの洋館に……彼の家にいるに違いない、と。
住宅街を抜けると、田畑が広がり、道をそれると森に入る。
新一の家は、その森の中で、小さな湖のほとりにある。
森の入り口を少し進むと、やや開けた場所に出て、その奥だ。
普段は人の寄り付かない静かな森のはずだが、今日は様子が違った。
新一の家のあったあたりへ近づくと人だかりができており、よく見れば町の男衆だ。
何かをわいわいと話し合っている様子で、いくつかの台車と大きな資材も道を占めるように並んでいた。
ようやく走る足を緩め、上がった息を整えながら、蘭は目を瞬く。
新一の家が火事になって以来、このあたりに来るのは蘭くらいなものだったのだ。
それがどうしたことか。町の男性たちの中でも特に力自慢の…大工や荷運びの男衆ばかりだった。
身長や体格の大きい彼らの人だかりで中心に何があるかはわからなかった。
だがひとつだけはっきりしていたのは、昨晩確かにあったはずの新一の家はそこにはなかった。
「……そんな……」
男たちが集まっている疑問よりも、新一の家がないという事実が絶望感で蘭を包む。
やはり、新一とともにあの家もなくなってしまったのか……。
目の前の風景がにじんで色あせていくようだった。
「あれ? 蘭ちゃん、どうしたんだいこんなとこで」
騒いでいた男衆の一人が蘭に気づくと、皆が彼女を振り返った。
よく礼拝堂に来る若い青年が気さくな笑みを浮かべながら尋ねた。
「あの、……!!」
新一のことを訊こうと思うも、どう説明していいのか言葉に詰まる。
「えっと、ここの……家……」
あたりを見回しながら呟くように口にすると、男たちはきょとんとしてから
「なんか、若い兄ちゃんがここに家建てたいってうちの親方に掛け合ってきてさ」
「物好きだよな~」
「こんな、いわくつきの場所になぁ?」
笑い合う男たちの話にぎょっとした。
「え?! ここに家を建てる人がいるんですか?!」
思わず声を張り上げると、男たちのほうも驚いた顔で蘭をみた。
だが、ここは新一の家だ。
誰とも知れない人に突然家を建てられては困る。
ただでさえ再び姿を消した新一の行方だってわかっていないのに……、そう蘭の思いは急いる。
「――蘭?」
そう、思っていたところで、探し求めていた声が、柔らかく蘭の名を呼んだ。
「え?」
顔を上げると、大工棟梁と並んで話をしていた青年が少し驚いた顔でこちらを見ていた。
それは、昨晩、不思議な再会した、彼。
「し、新一っ!!」
思わず大声を上げて名を呼ぶと、新一は目を瞬いて蘭へと歩み寄ってきた。
間違いなく、昨晩再会して愛を交わしあった、そして朝から探し求めていた顔だ。
「どうしたんだよ、お前、仕事は?」
昨晩のような物憂げな表情はなく、幼い頃と同じ軽口で首を傾げて尋ねてくる。
それが余計に蘭の胸に安堵を広げ、じわりと涙が浮かんだ。
「だって! 朝起きたら、いないから!!」
振切るように声を上げると、震えるように歯がカチカチと鳴った。
「また……消えちゃったのかと……!!」
声が自然と震え消え入る。
ぐっと涙を零すまいとこらえて見上げると、新一はきょとんとしてから怪訝な顔を作った。
「え? オレ、書置き置いてきたけど……」
「え?」
蘭の顔を覗き込みながらそう言われ、覚えがないことに蘭の方も思わず瞬くと、ぽろりと涙が頬を伝った。
「さては、みてねぇな?」
ニヤリと口の端をあげて笑った新一は子どもの頃の意地悪い笑みと同じだった。
ただ、やんわりと涙を拭ってくれた手がこれでもかと優しく蘭の頬をなでる。
「ごめん、ちゃんと蘭が起きるの待ってから出りゃよかったな」
それからそう優しく微笑んでそっと抱きしめられた。
昨晩包み込まれた新一の香りに包まれて、蘭はようやくほっと胸をなで下ろし、もう一度新一がここにいるという実感をし直した。
ギュッと彼のマントを握りしめるとまたじわりと涙が浮かんできて顔を隠すように新一の胸に体を預ける。
「おいおい、まさかっ!」
と、集まった男衆のど真ん中で抱擁を交わす二人に思わずといったような、上ずった声がかかる。
「兄ちゃんが結婚するっていってた嫁さんって蘭ちゃんなのか?!」
その声にはっと我に帰って羞恥に蘭が距離を取ろうと新一の胸を押したが、逆にぎゅっと抱き込まれる。
「ええ、そうです。ようやくオーケーもらったので」
頭の上で嬉しそうに弾んだ新一の声が聞こえた。
それと同時に周囲の男衆から悲鳴のようなどよめきが巻き起こる。
「う、ウソだろ?!」
「うわー、そうなのかー!蘭ちゃんおめでとう!」
「…そんな、オレ蘭ちゃん狙ってたのに……」
騒ぎに乗じて様々な声が飛び交うが、新一がいっこうに離してくれないので真っ黒なマントしか見えない。
「え?え?え?」
混乱したまま何とか上を見上げるとニヤリと笑った新一と目が合った。
「結婚するのに、住む家なきゃ困るだろ?」
「ええ?!」
周りの男たちのどよめきに負けずに蘭が驚愕の声を張り上げると、新一は少しだけ腕の力を緩めてから少し不機嫌に眉根を寄せた。
「オメー、昨日俺のプロポーズ受けてくれたのまで忘れてねーだろうな?」
そういわれて、昨夜の再会から十年前の火事と新一の真実、そしてプロポーズ、愛を誓い合った口づけも、そのまま抱き合った夜も全て走馬灯のように蘭の脳裏を駆け抜ける。
これ以上無理だというくらい顔も耳も首筋まで一気に赤く染め上げて、蘭はくらくらする頭と目の前をどうにかしたくて、もう一度新一の胸に顔をうずめた。
「わ、わすれてません……」
蚊の鳴くような声で小さく答えると、新一が嬉しそうに喉を鳴らして笑うのが聞こえた。
それから、あわただしい日々が続いた。
教会で式を挙げるのは、新一が吸血鬼という魔の属性を持つため難しく――聖なる属性の場に入るのは相当な苦痛を伴うのだという――、二人の家を完成させてから、親しい人々を集めての披露になるだろう。
家が完成するまでしばしお預けだ。
その間、二人は蘭の働く教会に許可を得て、旅に出ることになった。
王都で働く蘭の母に会いに行き、新一がどうしてもと、地方出張している蘭の父の元まで二人で押しかけた。
そして、十年の間、新一が身を隠していた――正確には十年前に負った火傷を治療し、血の欲求を封じるためにいたのだが、蘭にそれを伝えられずにいる。――魔の者が集う異界へ足を踏み入れる。
新一の両親や魔の属性にいる知人への披露が先になりそうだが……。
それらは、また別の話。