蘭先生と江戸川君スピンオフ 「被害者:芳川諒」
難解なトリックが使われた殺人事件の応援要請に応え、現場へと赴いたのは久しぶりだった。
それを通常と考えてしまうほど、その年で事件に慣れているとは思えない風貌の彼だが、すでに探偵としての名が通るようになってからは十年以上が経過している。
一度目の高校生の時はかなり調子に乗ってメディアに取り上げられたりと顔を出していたが、二度目の高校生を味わわざるを得なくなる事件に巻き込まれてからは、極力顔も名前も出ないようにと気を付けていた。
もっとも顔は出すわけにはいかない、というのが正しいわけだが……。
そんなことはさておき、一般人とかけ離れた日常を送る彼、工藤新一にとっては殺人現場から、刑事に自宅まで送ってもらうというのは、日常なので、さして変わったところなどなかった。
無事事件も解決し、ひと悶着あったものの犯人も確保された。
付き合いも長くなった高木警部補(十年前からは当然だが昇進している)に自宅まで送ってもらう。
工藤新一にとっての日常からさして逸脱したところはない。
ないはずだった、のだが……。
なぜだか、胸騒ぎがしている……。
こういった勘が鋭くなったのは、いつからだろうか。おそらく彼の日常を一変させた十年前ごろからだろう。
ちょうど、高木の車載無線機が本部からの通達を連絡、今夜二度目の謎解きに向かうことになりそうだ、と、少しだけずれた日常に一瞬だけ気分が高揚した時だった。
「ごめんね、工藤君。このまま向かっていいかな?」
律儀に尋ねる高木に、常の新一なら二つ返事でうなずくところだったが、今日はなぜかそれが躊躇われた。
「工藤君?」
返事を躊躇った新一を訝しんで、高木がちらりと彼を見た。
「……あ、すみません。さっきの報告の内容……、この間アメリカ事件でFBI から連絡もらった内容に似ている気がして……」
返事が遅れたことに謝りをいれつつ、自分の中で引っかかったわだかまりを吐露すると、高木が目を丸くした。
「え? そうなの?」
「……ええ、なんとなくですけど。
メールのデータあると思うので、ちょっとだけうちに寄ってもらえませんか?」
高木のほうが二つ返事で、報告の無線を取ると、車はもともと帰宅予定だった帰路をそのまま辿った。
…ただ、しいて言うと。
新一の中でわだかまっていたのは、事件のことだけではなかった。
彼の名前は、芳川諒。今年の春、米花町にある帝丹高校へ赴任してきた教師だ。
担当は国語、受け持ちは二年F~H組。
年齢も二十五と若く、顔も整ったほうだったので、若い女子高生たちは黄色い声で彼を迎え入れ、半年ほどたった今でもその声は途切れはしない。
学生のころから割と異性からはもてるほうだったので、派手ではないものの女性関係に苦労したことはない。
なかった、のだが……。
当然といえば当然ながら、女子高生は可愛い子でも年齢からして子供に見えるわけで。
つい数年前までは、彼も学生だったのではあるが、それでも社会に出ると高校生はやはり若く感じるとともに未成熟な子供に映る。
それに魅力を感じる人間もいるであろうが、彼はそういった方面に触手は動かず、どちらかといえば、目の前に現れた同僚のほうに目を奪われた。
同じく二年の国語を担当する女性教師。
名前は工藤蘭。年齢はきちんと聞いてはいないが同じくらいだろうと思っている。
彼の担当外の二年A~E組を担当していて、二年A、B組の副担任もしている。
容姿が美人であることももちろんだったが、明るく気さくで分け隔てなく、授業もわかりやすい。
少し天然なところがご愛嬌かと思えば、空手の有段者で空手部にも顔を出す。
そんなギャップも彼女の良さを引き立てるのか、男女問わず生徒から絶大な人気を誇っていた。
帝丹高校のOGであることもあり、古参の教師からも可愛がられ、他校の教師や生徒からもアプローチされていることもあるというから、頭が痛い。
そう、頭が痛いのは彼女のことだ。
そんな完璧ともいえるような彼女は、芳川の淡い初恋の女性に瓜二つで、かつ名前も同じ。
運命的に出会えた彼女に心惹かれるなというほうが無理な話だった。
淡い初恋の女性は、らん、という名前しか知らなかったが、高校に上がったばかりのころに見かけた他校の女子高生だった。制服が帝丹高校だったので、この高校のOGになるだろう。
だから、その初恋の彼女が、工藤蘭なのではないだろうかと邪推しているのもある。
そうだったらうれしいと思うし、そうでなくても彼女が自分の恋人になってくれたらと思うだけでも気分が高揚する。
つまるところ、芳川は工藤蘭に出会って以降、彼女に惚れ込んでしまったのであった。
ここ半年、同僚として、同じ教科を担当する教師としてほかの教師たちよりは接する機会が多かったのはかなり幸いで、男子生徒たちはもとより、ほかの教師や他校の教師・生徒よりは一歩抜き出ているはずだと思う。
他の同年代の男性教師たちももちろんだが、かなり本気で彼女に恋をしている男子生徒は噂を聞くがきりでもかなり多いようだ。
しかし、目下一番の問題は、彼女が左手の薬指につけている指輪だ。
つまり、恋人がいるだろうという証。
彼女ほどの女性であれば恋人の一人や二人いてもおかしくないのはわかるのだが、問題はその指輪だ。
飾り気のすくない指輪だが、時々つけていないことがある。
あまりにももてすぎるので男性よけにつけているらしいという噂があるほどだが、そのほうが信憑性が高い気すらする。
また、逆にすでに結婚しているらしいという噂まで流れている。
どう見ても新卒か、自分と同じ年にしか見えない彼女だ。大学上がりたてだろう。
それが結婚しているというのは噂にしては尾ひれがつき過ぎだと思って信用していなかった。が、残念なことに、芳川はまだ若く、アクセサリーにそれほど興味を示していなかったため、彼女の左手の薬指にはまる飾り気が少ないシンプルなそれが結婚指輪であることは知識の範囲外だった。
芳川とて、努力はしていた。
何とかアプローチしようと何度か声をかけるものの、なぜだがよく邪魔が入るのだ。
別に不自然ではないのだが、どことなく意図的に二人きりになれないように邪魔な生徒が現れることがある。
彼女が顧問をしている推理研究同好会を国語科準備室でやっているという五人組。
しかも彼らは彼女が副担任をしている二年B組に所属している。
彼女とは古くからの付き合いで、小学生のころから少年探偵団などというグループを結成し、その頃は新聞や地方メディアに取り上げられたこともあるそうだ。
蘭に声をかけようとすると、いつの間にかその五人のうちの誰か彼かが現れていて、折角の二人きりのチャンスが大概つぶされる。
特によくあらわれるのが、吉田歩美と灰原哀という女子二人。
帝丹高校の中でもアイドルといってもいいほど容姿が抜きんでており、蘭と並んで絶大な人気を誇っているがなぜか彼氏はいないらしい。
子供のころからの顔見知りとあって蘭を慕って、三人でよく話しているのも見かける。
次いで、蘭の自宅に小学生のころから下宿しているという江戸川コナンという少年だ。
高校生とはおおよそ考えにくい落ち着いた雰囲気と、整った容姿、学年トップにスポーツ万能と何拍子もそろいすぎた生徒だが、部活動には所属せず、よくスマートフォンを眺めていて授業態度もあまりよくない。
帰りは大概、そんな江戸川が蘭の就業時間まで待っていることが多く、二人で帰っていくので送っていくのもままならない。一度かなり遅い時間までかかった職員会議後を狙ったが、それもその時間まで江戸川が待ち構えていた。(一応生徒の下校時間はとっくの昔に過ぎているような時間だった)
普段から冷めた目つきをしていて高校生っぽさはないが、一度睨まれたときは本当に殺されるかと思うほどの殺気、というのだろう、そんな雰囲気にのまれた。その場は気圧されてしまい引き下がったが、その後少し経ってからもしかするとと思いついたのは、江戸川も蘭に恋焦がれているのではないだろうか、ということ。
比較的表情の変化が乏しい江戸川が推理研究同好会のメンバーといるときにはシニカルに笑うのは何度か見かけたが、別人のように優しく微笑みかけていたのを見たのはそれこそ相手が蘭だった。
江戸川と蘭が二人でいるのは見るが、女子以外では同じ推理研究同好会のメンバーである円谷光彦や小嶋元太ですら蘭と二人きりでいるところは見たことがない。
これはたまたまだったが、普段は「工藤先生」と折り目正しく呼んでいる江戸川が、二人きりの時には「蘭」と下の名を呼び捨てにしていたのを聞いた。
さすがに高校生と付き合っているということはないだろうと、思いたいが、すでに江戸川と蘭は同居しているわけで。
蘭にしても、江戸川にしても一番距離が近いと噂が出るのはこの二人が一緒にいることだった。
もしや徹底的に工藤先生の虫除けを徹底的にしているのは江戸川か……?
というのがここ最近たどり着いた芳川なりの推理だった。
話が長くなったが、そういうわけで、なかなかお近づきになることができない蘭に迫る千載一遇のチャンスが訪れた。
それは、明日にでも必要になるはずの国語科の授業の資料。
しかもまだ手を付けた形跡がない。
もちろん芳川も職員室で幾ばくか手を付け、残りは持ち帰って仕上げてしまう予定のものだった。
これは絶対に必要としているはずだ。
家まで持って行ってあげれば感謝されることは間違いなし。
好印象のアピールになるし、うまくいけばそのまま…なんてことがあり得るかもしれない!
浮かれた頭で盛り上がる芳川の頭には、工藤蘭がどういう人間でどういう生活を送っているかの想像は全く追いついていなかった。
芳川はとりあえず、事前に調べておいた住所にたどり着いて、ぽかんと口を開けたままそこにたたずむ建物を見上げたまま立ち尽くしていた。
その近辺をよく知っていればそのあたりが高級住宅地であることに気付いただろうが、芳川はそこまで気が回っていなかった。
洋館、としか言えないかなり大きい豪邸はその一角でもかなり異彩を放ち、明らかに上流階級の人間が住んでいるとしか思えない場所だった。
本当にここが、工藤先生の自宅なのか?
間違った情報なのではないだろうか、と思う。
確かに佇まいなどは品位があるが、いたって庶民的な彼女だ。
昼も手作りだというお弁当を毎日持参していて倹約的だし、会話からしたとしてもごく一般的に感じた。
だが、表札は確かに「工藤」と出ている。
ごくりと固唾をのんで、恐る恐るインターフォンに指をかけた。
間違いであればいい。
実は違う工藤さんの家であればいいと念を込める。
ここに彼女がいたとなるとますます雲の上の人になってしまいかねない。
ギュッと目をつむって指先に力を込めると、ピンポーンとごく一般的なインターフォンが耳に届いた。
何なら留守でも…と、思いたくもなってくるが、明らかに門燈もついていれば、部屋の明かりも漏れているので、在宅していることは間違いなかった。
しばらくして、応答する声は毎日聞くことを焦がれている鈴を転がすような甘やかな声だった。
『はい?』
女性特有の高い声に一瞬固まるが、固まっていてはただの不審者だ。
「あ、ああ、あのっ!」
緊張に声が上ずったのはわかったが、そこで止めてはここまで来た意味がないと、芳川はぐっと腹に力を込めた。
「芳川といいます。工藤蘭先生のご自宅はこちらですか?」
『え?芳川先生?! え、どうされたんです? あ、ちょっと待ってください』
芳川の名乗りに驚いたように応じた蘭は、戸惑いながらもそういうと、いったん受話器を置いたらしかった。
インターフォンの音声が途切れしばらくすると、外門から少し距離のある玄関の扉が重い音を立てて開いた。
「芳川先生!」
こちらを確認して声を上げたのは、できればここから出てきてほしくないと思っていた、工藤蘭、その人だった。
軽快な足取りでこちらによって来た彼女は、いつものスーツ姿ではなく、髪もおろして完全にオフスタイルだった。
見たことのない姿はいつもしゃんとしている彼女に隠されている可愛らしさを際立たせているようで、完全に見惚れて呆けたまま彼女が重い外門を開けるのを見つめてしまった。
「どうされたんです?」
少し視線の下になる彼女が見上げる視線を真に受けると、言葉が詰まったが、何とか息をのんで持ちこたえるとここに現れた理由の資料を取り出した。
「国語科準備室に置きっぱなしになってましたよ。忘れていかれたでしょう?」
できるだけ魅力的に見えるように微笑みかけて見せながらそれを渡すと、彼女は今気づいたように目を丸くした。
大きな目がぱちくりと瞬いたのがまた可愛らしい。
「え?! 嘘っ!!」
驚いたまま受け取ると、中を確認し、確かに自分のものだと判断したらしい。
「やだっ!! ありがとうございますっ!!」
明日必要になるのは、自分も彼女も同じなので、資料をギュッと抱え込んでからこちらに向き直り、彼女は花がほころぶように微笑んだ。
やばい。と、芳川の中で警鐘がなった。
この花のような笑顔の女性を手に入れなけばならない、というような使命感のようなものに一瞬にして支配される。
家が豪邸で立場に差があるかもしれないなどと先ほどまで憂いたことはあっという間に頭から消え去っていた。
「あ、あのっ! 工藤先生っ!」
震える声でなんとか声をかけると彼女はにこやかな笑顔のまま小首をひねる。
その動作もいちいち可愛いのだが見とれていては話が進まないだろう。
今までは自分から告白などあまりしてこなくても、自分の容姿につられた女性から寄ってきてくれた。
だが、彼女は今のところ芳川に対し、同僚以上の接し方をして来ない。
それでも自分から思わせぶりな態度を出せば彼女も心を寄せてくれるだろうか。
「僕もまだそれ、完成していなくて…、もしよろければ……」
これから一緒に協力して完成させませんか?
それこそ高校生のような誘い文句だな、と内心自分に呆れたのだが、その言葉は最後まで紡がれる前に、けたたましいサイレンと赤色灯の光に遮られた。
「え……?」
それなりなスピードで滑り込んできた車は、普通車の身なりの上に小さなパトランプを載せたタイプの、所謂覆面パトカーと呼ばれる自動車だろう。
閑静な住宅街に不釣り合いなその車はピタリと芳川と蘭の前に横付けした。
と、同時に助手席のドアが開く。
「ちょっ、工藤君っ! 勝手にサイレン鳴らさないでよっ!」
焦ったように運転席から苦情が聞こえたが、それに応じずに降り立った青年は鋭い眼差しをこちらに向けた。
こちらの顔を確認すると、秀麗な眉尻をピクリとはね上げる。
その顔は印象が違う点があったものの芳川もよく知っている顔、蘭との逢瀬をいつも邪魔しに現れる、江戸川コナン、その人だった。
「おかえりっ! どうしたの?」
その様子に気づく様子なく彼に声を掛けたのは蘭だ。どうしたの、とは、パトカーのランプをつけて帰宅する事はないための問いかけだったが、その意図を芳川が知ることはない。
「もう1件、事件あったみたいでな。似た事件の資料、前にFBIからもらったから、取りに来た」
「そうなんだ」
蘭の問いかけに正しく答える彼に、彼女は納得したように頷いたが表情は優れなかった。
「で?」
唐突には切り出した彼は呆然と見ていた芳川に向き直る。
「どちら様?」
それから蘭にそう尋ねた。
「え? 江戸川だろ?」
蘭が応じるより先に思わず口について出たのは芳川の方だった。
彼は、目下、蘭へのアプローチについて、一番厄介で邪魔な男子高生だ。
多少いつもと髪型が違う様子なことと、制服ではなく着崩したスーツに身を包んでいること、トレードマークの眼鏡がないことが、違和感としてあるが、全く同じ顔だ。
前回の職員会議後だって、工藤先生の家に下宿している、そういってはねのけていたのだから現れることは想定内だ。まさかパトカーから降りてくると思っていなかっただけで。
ただ、彼のノーネクタイの首元に蘭の左手薬指に嵌められた指輪と、同じものが下がっていたことにその時の芳川は残念ながら気づいていなかった。
芳川の問いかけに、一瞬目を細めた彼はにっこりと破顔した。
「オレ、これでも27なんですけど、親戚とはいえ高校生に間違えられるとは……」
そこで一旦言葉をきって蘭に向き直ると
「オレ、そんなに童顔かな?」
そう笑った。
は……?
言葉の意味が全く掴めず目を瞬くと、問い掛けられた蘭は呆れたように目を眇めていた。
「そっちで通すんだ」
と、運転席に座ったままの刑事が言っていた声は残念ながら芳川には届いていない。
「何、言ってるんだ?江戸川……?」
27?って俺より上?それは無理があるだろう。確かに高校生よりは大人っぽい雰囲気に出来ているがどう見ても芳川より若い。
親戚?それにしたって似すぎだ。
声だって、よく聞く生意気な生徒のものだ。
なにかの冗談かからかわれているのかとそう切り返すと、仕方なさそうに小さく息をついてから、おずおずと蘭が口を挟んだ。
「あの、芳川先生、彼、本当にコナン君じゃないんです」
困ったような笑みを浮べながらそう告げる蘭に芳川のほうが困惑する。
「先生?って同僚?」
蘭の言葉の端を拾って問いかける彼に、蘭はまた半眼になりながら呆れ混じりな顔でに頷いた。
「学校に忘れてきた明日までにまとめなきゃいけない資料持ってきてくださったの」
「はあ? …… 何やってんだよ」
今度は彼のほうが呆れたようにそう言ってから、ポンと蘭の頭を撫でて、それからこちらに向き直った彼は、学校では見たことのないさわやかな笑みを浮かべて会釈した。
「申し遅れました。僕は工藤新一、探偵です。妻がいつもお世話になっています」
……は?
思考がフリーズする、というのはこのことなのだろう。
江戸川コナンだと思っていた青年が名乗ったのは明らかに違う名前で、さらに時折耳にはさむことがある知名度の高い名前だった。
もう十年近く前に世界的に暗躍していたといわれる国際犯罪組織を一斉摘発した、当時高校生探偵ということで知れ渡った名だった。
芳川も当時高校生で少し年上の高校生がそんな活躍をしたということに驚いたものだ。
それも芳川の思考を奪った要因の一つではあるが、…それよりも問題なのは、そのあとだ。
「え?」
「あわただしくてすみませんが、この後殺人事件現場に行かなければならないもので、資料を取ってきますのでこれで失礼させていただきますね」
こちらが理解に達する前に彼はさっさとそう告げると、蘭に一言二言声をかけてからさっさと先ほど蘭が出てきた家の中へと入っていった。
「芳川先生、ごめんなさい。あわただしくて」
申し訳なさそうに小さく頭を下げはしたが、彼が落としていった爆弾を否定する言葉は全く出なかった。
「あ、あの……?」
「はい?」
何とか絞り出した言葉に蘭が応じる。
「ご、ご結婚されてらっしゃったんですか……?」
「え?ええ」
照れくさそうに、ほほを染めて、だが幸せそうな笑顔を浮かべて蘭はうなずいた。
「……」
嘘だろ…?
完全に思考が追い付かない状態で、呆然と蘭の顔を見つめるが、彼女は小首をかしげてこちらが黙ってしまったことを気にしているようだった。
「く、工藤先生、どう見ても僕と同じ年くらいですよね?」
「ええ? 私も新一と同じ年なので、27ですよ? もしかして年下だと思ってました?」
ころころとおかしそうに笑う蘭は若く見られてことに喜んでいるらしかったが、幾分暗いせいも手伝って蒼白になっている芳川の様子には気づいていなかった。
そういえば結婚しているらしいと噂があったが……、そんなものただの噂だと思い込んでいたのだ。
火のない所に煙は立たぬ、というわけである。
「27…?」
芳川が驚愕に捕らわれたまま呆然とつぶやいても、蘭の興味はすでに家から資料と思われる数枚の紙をめくりながら出てきた夫へと移っていた。
新一は資料から目線を挙げて蘭を視界に入れると、ふたりは一瞬視線を合わせて微笑みあう。
蘭が開いた門をくぐり、乗ってきたパトカーに近づいた。
「高木刑事っ!お待たせしました!」
「あったのかい?」
運転席で待っていたのは刑事だったのだと、芳川はようやく気付く。
もちろんパトカーに乗っているのだから警察なのは当たり前なのだが、そんなことにすら思考が追い付いていなかった。
「ええ、やはり手口がほぼ同一です。すぐに犯人、割り出して見せますよ」
不敵な笑みを浮かべ、高木にこたえる新一は、確かに芳川の知る江戸川とは全く違う表情をしていた。
「あいかわらず頼もしいよ、じゃ行こうか」
高木が促すのに答えて助手席の扉を開けてから、ふと思いついたように新一は動きを止めた。
「あ。すみません、忘れ物」
「あー…」
そういって、身を翻した新一に、心得ているかのように高木が目をそらしたのには、当然ながら芳川はついていく間もなかった。
「蘭」
先ほどまでのキリリとした探偵の顔でもなければ、芳川に名乗った時のさわやかの笑みでもなく、ふわりと甘ったるい、そんな印象の声で蘭を振り返り彼女の名を呼ぶと、
「え?」
きょとんと首をかしげた彼女の腕を軽く引いて、素早く唇を合わせた。
といっても、芳川の方から見えたのは新一の後頭部だけだったが、重なった影にそんなものは容易に想像できた。
「いってきます」
と、かける声にも甘さが加わり、新一が身を離してようやく見えた蘭の顔は門灯に照らされてなお真っ赤に染まっていた。
「もーーーっ…いってらっしゃい…」
困ったような表情を浮かべながらも、どこか幸せそうに彼女はパトカーに乗り込んでいく夫を見送った。
正直、その後、何と言って彼女と別れ、自宅まで帰ったのか芳川は全く覚えていなかった。
好きだ、と、今日改めて、彼女にしたいと思った女性は、噂の通り本当に結婚していた。
その相手とも相思相愛なのが見て取れて、自分が割り込んでいく隙間など全くないのだと思い知らされたようだった。
いつの間にか帰ってきた自宅で、ビールを煽り、呆然としたまま座り込んでようやく、ああ、失恋したのだなぁと、改めてその虚無感に気付くのだった。
だいなしなおまけ
「工藤君てさ、蘭さんに盗聴器でもつけてるの?」
「へ?」
「さっきの明らかに蘭さんに気がありそうな先生、来てるの察知したから自宅戻ったのかと思ったよ」
「まあ、非常用のGPSはつけてますけど、蘭を盗聴なんてしてませんよ」
「…つけてるんだ」
「たしかに、なんかやな予感はしてましたけどね。
芳川、結構前から学校で蘭にちょっかいかけてきてたんですが……、まさか家まで来ると思いませんでした」
「……ようは、工藤君と蘭さんはテレパシーでも使えるのかな」
「テレパシーって……。超能力なんてこの世に存在しませんよ」
「そういうところはリアリストなのにね」
「学校のガキどもも蘭は結婚してるっつー噂流したのに、盛っててめんどくせーし。
もうちょい対策考えねーとなぁ……」
「……大変だね、工藤君。
とりあえず、まずこっちの犯人、よろしくね」
「わかってますよ」